Hyuyon Kim
Artist Interview
韓国からフランス、そして日本へ
キム・ヒョヨンの感性がとらえる東洋人としてのアート
「月と光、そして太陰潮」(2020)(岡山県立美術館)
韓国、フランス、日本の3か国にわたってアートを学び、美術館はもちろん、美術館以外の様々な場所でのプロジェクトに携わる金孝妍(キム・ヒョヨン)。制作プロセスに重きを置き、作品はその時その場所の空間・空気・素材・人との対話の痕跡だという。その独特の世界観にある背景は何か、そして未来に何を描きたいのかを聞いた。
「フィボナッチの静水」(2022) 公開制作の様子。(高梁市成羽美術館) (写真:青地大輔)
韓国でアートを学び、フランスでアイデンティティを自覚する
韓国の済州島生まれだが、父の仕事の関係で中高を名古屋で過ごす。幼いころから絵を描くのは好きだったが、3つ上の兄がソウルにある弘益大学校絵画科に行くことになり、自身も美術の道を目指すようになる。日本では日々、デッサンの練習をしていた。大学に無事合格すると、西洋画が主体の絵画科へ。大学で美学や哲学を学ぶ中で、ただ描くのではなく、コンセプトを作り出すアートに興味を持つようになる。
大学3年生の時に、パリのエコール・デ・ボザールに交換留学する。自分が好きなことを自由にやっていたつもりだったが、実は、本心から出たものではなくどこか借り物であるという感覚、「透明でない感じ」がずっとあったという。パリでは容赦なく東洋人として見られたことから、西洋画を描いている自身に対しての問いが始まる。東洋人としてのアイデンティティを強く意識するようになる。この経験により、コンセプトの作り方が決まった。
パリのエコール デ ボザール/Sylvie Fashonのアトリエで制作の様子(2001)
「今までいろいろやってきたが、一度ゼロに戻った。」
油絵具・アクリル絵具を何も考えずに使っていたが、技法・技術を見せるのではなく、本当にクリアな自分から出たものを追求するために、素材にも気を遣うようになる。このことは、銀箔や岩絵具から金属的なパーツまで、制限を設けずに自身の精神性を追求しようという現在のスタイルにつながっている。
絵画とは何なのか
フランスから韓国へ帰ると、絵を描いていて疑問に思うことを一つ一つ解決していくようになる。平面作品のあり方にも疑問を持ち、立体と平面を行き来した。なるべく「こうしないといけない」という縛りを自分で作らないようにした。線を引くときも「技術的に何か良いことをしよう」として、嘘っぽいものが出るのを避けようと試みた。
左から 「思惟」(2004)、「コントロールできない」(2006)、「you&me」(2006-2007)
帰国してからしばらくは、絵が描けないという時期があった。その間はオブジェやビデオなど、絵画以外のメディアを使って制作していた。「絵」に関しての問題は解決してないので、いつかは「絵」に戻るだろうという前提で活動していた。
そのうちに、仕事として「名作の模写」をすることがあった。模写していく間、「本物と偽物の違いはなんだろう。偽物でも感動していたら変わらないのでは。」と考えていた。
絵というのは油絵でもアクリル画でもイメージがまず目に入る。そして、自分が知っているなにかにあてはめようとする。
しかし、事実としては「絵具」を見ている。でも「絵具」を認識していない。
では、「絵具」を描いたらどうなるのか。
そして、絵画の制作に戻った最初の作品が「絵具の絵」シリーズだ。
それは、絵具を絞りだしたものを見て、それを「平面に描き写した」ものだった。
この絵から、絵画が再び始まった。
「絵具の絵」(2011)
日本で自身を確かめる
大学卒業後すぐに修士課程へ。修士課程を終えるとまもなく、父親が名古屋から岡山に転勤し、岡山で定年後のための土地と家を買ったのをきっかけに、自身も岡山に移住することになる。
和紙・墨・岩絵具・膠などの日本画の画材に触れるために、当時、井出康人氏が教鞭を取っていた倉敷芸術科学大学の博士課程に入る。素材の探求の一つとして、和紙をくしゃくしゃにしても、水で張ればきれいに伸びることを利用し、くしゃくしゃの立体の時に描き、その痕跡を平面にする代表的な作風の一つを確立する。さらにその痕跡を忠実にトレース、そして、同大学日本画ゼミの森山知己氏が行っていた銀を燻して硫化する研究に触れ、銀箔に硫黄の煙で色付けする技法へと昇華させた。
左写真:「水の足跡-〇□△-」制作過程(2016)
右写真:「水の足跡-○□△-ネガ」(2017)、「水の足跡-○□△-」(2016) (写真::加賀雅俊)
「プリミティブなものを使って、自分と、ものと、使う時の温度湿度、様々な要素がかかわって、ものが中継になって、自分と世界との間で作品が生まれる。」
左から「素材と絵の間-自画像-」(2021)、「素材と絵の間-◯-」(2021)
金孝妍展「息する瞳-Breasphere-」展示風景 (高梁市成羽美術館) (写真:青地大輔)
生きる痕跡としての作品
『根底には、幼い時から、幸せな生活だったことがある。幸せを感じていたのだけど、幸せだったから、死を意識していた。死んだらどうなるとか、死ってなんだろうとものすごく考えていた。』
それが、今の「存在」とは何かという問いにつながっている。作品自体が、自分という存在が、世界と触れ合ってできる何か。それを「あえて理論的に考えて言語化すること」以外の方法で表現し、制作の過程を生きることそのものに近づけようと試みている。その都度出会った人々や環境とかかわって直感的に作り上げる行為そのものに生を表現し、作品を生の痕跡として残す。
「偶然による要素は自分の理性ではコントロールできない。偶然の要素を受け入れる姿勢でいるので、自分の無意識な領域に信頼がないといけない。そのため意識する領域では、なるべく透明な存在でいようと常に心かけている。自分の身体を実験台としてしか世界を確かめることができないと思い、それを表現する構造としての作品がある。」
「フィボナッチの静水」(2022) 金孝妍展「息する瞳-Breasphere-」展示風景 。 (写真:青地大輔)
場所との関係性を探っていきたい
「近頃は美術館のような箱ではない場所での展示が多かったので、場所との関係性についてよく考えている。場所と作品について考えることが多い。それが楽しいことでもある。自身と環境・物・人との関係性、お互い作用しあう、その中で生まれるものに興味を持っている。その場所だからできる作品が出来るのでとても面白い。これからもそういった活動に携わっていきたい。」
「息時計」(2022) 高松丸亀町壱番街前ドーム広場での展示の様子。 (写真:加賀雅俊)